第41回『介護とコミュニティづくり(2)庭から生まれる自然な繋がり』
2016年10月20日
※今回の『介護とコミュニティづくり(2)庭から生まれる自然な繋がり』は、
「しゃくじいの庭」という小規模多機能・グループホームの運営に携わっていらっしゃる
安井英人さんとの対談です。
の続きとなります。
河村甚(写真右、以下 じん)
安井さんは前に、「まちづくり」とか「コミュニティづくり」とかをコンサルとしてやっていたじゃないですか。僕が響いたのは、ここにただ事業所をつくって中で本業やるだけじゃなくて、「庭」っていう中間の橋・繋ぎみたいなものをつくって、コミュニティとの繋がりをつくろうとしているところです。
前回話したワールドキャンパスにしても、外国人の若者のための教育プログラムにとどまらないものに、安井さんがしちゃったじゃないですか(笑) コミュニティのものにしていったというか。そういうずーっとやっている「コミュニティづくり」みたいなところが聞けたらなと思います。
安井英人(写真左、以下 安井さん)
一貫していますね、自分の中ではすごく。ワールドキャンパスは、いわゆるソフトだったわけですよね。外国人の集まりを連れて回るっていう。場面が地域コミュニティで、「外国の人たちが楽しめるような企画をホストとして考えてください」というお題を出して、それをみんなで考えることによって、コミュニティがいろんなことを一緒に共有したり、結びつきが強まったりしないかなというような話だったんですよね。
で、ワールドキャンパスのときに自分のなかで満ち足りなかった部分っていうのが、 外国の人がくる状況っていうのはかなり限定されるわけですよ。僕らが外国の人たちを年がら年中連れて回るわけにもいかないですし、ずっとそこの地域にいるわけにもいかない(実施地域は国内15都市)。場面を作るには制約が色々あるわけですよね。
かなり前にじんくんとも話したと思うんだけど、ハードがあって、いつも物理的に「そこに人が集まっている」とか「そこで何かが起こっている」みたいなものの発信力とか求心力みたいなのが欲しいなあとずっと思っていたわけですよ。だけど、ハードは、お金もかかるし、簡単にはつくれないじゃないですか。
そういうなかで、この新事業所の構想が出てきた。当然そのために出てきたわけではないですけど、事業の内容を考えていくなかで庭の話が出てきて、地域のNPOの人と仲良くなって、「園芸療法やります」っていう話になったわけですよ。それで、物理的にみんなが集まれる機能をもつと、どういうことができるのかなってワクワクしたところから始まったんですね。
いま現在この庭がどうなっているかというと、まだ1年なのでフルには機能していないんですね。地域の人たちが入って一緒に園芸療法を学ぶとか、その学ぶ過程でケーススタディ的にうちの人たちがそこに関わっているとか。そういう状況は実際にできてるし、いまあそこにトマトがなってますけど、ああいうのも赤いのが増えればおばあちゃんたちと一緒に摘んで料理して食べたりもするわけです。そういう意味で庭を中心にした関わりはできてきています。
あとは、さっき人が座ってましたけど、ベンチを作りました。ベンチを置くことで、そこに誰かが座り始めるだろうと。座れば「こんにちはー」と会話が生まれたりするだろうと。その他にも、あそこに地域の人から甕をもらってきてメダカ飼うという話もあったんですけど(笑) そういうようなことをガチャガチャやって、人が自然と会話できるようなものにはなりつつあるかなと思いますね。
じん
庭でベンチいいですよね。やっぱああやって座りますもんね。それくらいオープンだから。庭の話を聞いてて、想像してたのと違ったんですよ。柵くらいあるのかなと思ったら、完全オープンじゃないですか。壁もなんもなくて、ぷらっと入ってこられるみんなの庭くらいの感じで椅子があるから。向こうから入ってきてもらう接点としては、すごいなと思って。メダカなんかもいいんじゃないですかね(笑)
安井さん
ね。いま僕がすごくいい光景だなと思うものがあって。うちは毎月第3土曜日は「カレーの日」って言ってカレーを作って、そこのウッドデッキのところでみんなに食べてもらうんですね。その時に「オープンガーデン」って呼んで、ベンチ作るワークショップやったりとか、バーベキューセットでイモ焼いたりとかするんですけど、そのときに地域の子供たちがいっぱい来るわけですよ。
建物の周りがぐるりと抜けられるつくりになっているんですけど、子供たちが建物の周りをぐるぐる回っているのを認知症の方がニコニコ笑って眺めている。それを横目で眺めながらお母さんたちがお話ししてるんですよ。いいでしょ。そこに望むらくは地域のお歴々、自治会とかそういう方々が「なるほどね!こういうふうになるんですか」なんてね(笑) やっぱり認知してもらいたいですね、単なる介護事業所としてだけではなく、そういう機能としても。
要は、多少提案的でもあって。ここの商店街も、ご多分に漏れず、厳しいわけですよ。駅前のスーパーやコンビニができて、昔ながらのお店は少なくなって、少し落ち着いた感じの商店街になっているわけですね。2代目・3代目ががんばってらっしゃるんですけど、上の方たちは高齢化していくわけですよね。そういうなかで「人が集まる」「知り合いになる」装置を、人工的につくることの意義はあると思っています。
というのは、認知症について誰も自分に起こることとは思ってないし、忌避する傾向もあるわけですが、聞いてみるとそこらじゅうにあるんですよ。昔だと、みんなが知り合いだから「ちょっとご飯持っていってあげようか」とか、そういういろんな関わりってあったと思うんですけど、都心ではあまり望めない。ここは古いつながりも残っているけど、そこに大きなマンションが建ったり、賃貸に住む人が増えたり、自治会にも商店会にも関係ない人がどんどん増えてるわけです。
しゃくじいの庭には、子連れの若いお母さんが来て喜んで人とコミュニケーションを取っているわけですよ。そこに昔から住んでる元気のいいおじいちゃんおばあちゃんがいて話してて。そういうのを見てると、「そそそ!そういうことそういうこと」という感じがしてる。
結局なにか人工的につくらないと昔あったことは取り戻せないんですよね。「昔は良かったね」って言ってても昔には返れないんです。今はオンゴーイング、前に進んでいますし、変化していっていますから。プレイヤー自身も前とは違う。だから、前に良かったのは何なのかっていうのを一生懸命考えて、それを人工的につくるためにはどういうことをしたらいいのか考えてるときに、単純に防災とか防犯とか自治会に入ってくださいとか、そういうことを言っているだけでは入ってこないですよ。
じん
そこに来てくれって言われたとしても、遠い世界なんですよね。
安井さん
そう。だから、そうじゃなく楽しいこと。
じん
どっちにとっても自然な状態をデザインしていくっていうこと。
安井さん
そう。で、さっき言ったトマトを一緒に食べるとか、メダカを愛でるとかね、たとえば、そういうことで知り合いになるとするじゃないですか。すると、それで終わりじゃないわけで、それこそ震災のようなことが起きたときに、普段からの付き合いがちゃんとあるかということが人の命を救うっていうことにつながっていく。
南三陸のコミュニティとかでも、地域が内部的に密接に繋がっていたうえに、外の人たちと繋がっているコミュニティっていうのは動きが早かったですよ。中が固まっていても外と繋がっていないと見つけられないんですよ。外と繋がってても、中がバラバラだと伝播しないんですよ。その両方ができているコミュニティは結構あって、そうすると救えるんですよ。ものすごく強力に。
だから、単純にトマト一緒に食べるとか、カレー一緒に食べるでいいんですよ、日常はね。だけど、何かが起こったときに「あの人大丈夫かな」ということに繋がっていく。特にうちは認知症の方がいるので、「認知症って何だろう」という問題にも日頃からリアルなものとして接することができる。そういう情報発信や相談の機能も人が集まる一つの要素になる。
じん
なんか見えないところにあるから、怖いというかね、見ないようにしちゃうことってあるのかなと思って。最近似たような話でオリンピック・パラリンピック関連で障害者スポーツの講演のなかで「障害者って実はいっぱいいるんだけど、街で普通に会わないですよね」という話があって。普通のコミュニティに入っていきづらいとか、見えにくいところにいざるをえないとかいうことがあるらしいですよ。たとえば、普通に生きていけるようにしたいのに、電車に乗るときに仰々しく板に乗っけて、留めて、駅員さんが来て……。
もっと自然にっていうのが望ましいのに、そうなっていない。だから、障害のある人たちが外に出にくくなってしまっていて、みんな見えないから遠い。見えないから怖い……。怖いっていうのかな。わからないことって恐れだと思うので。
社会の流れとしても、みんなが意識するようになってきていると思います。
安井さん
それは障害者福祉の視点の一つで「ソーシャル・インクルージョン」って概念が何十年もあるわけですけど、できるだけ社会のなかに障害のある人が戻ってくる、隔離されるのではなくて。進んできたとは思いますよ。
ただ、障害のある人たちの話と高齢者の人たちの話は、そういう意味で同じ部分もあるんだけど、障害者と高齢者の絶対的な違いは数字だと思ってる。高齢者は圧倒的に多い、どんどん増えるわけです。障害者もたくさんいるんだけど、全体としてはマイノリティなんですよね。それはもちろん、何を障害とするかによって数は前後すると思いますけど。
寿命が延びていくなかで、認知症は当然増えていく。流行病ではなく、統計的に増えていくのが当然なわけですよ。そういうなかで認知症を知らないこととか、怖いこととか、不安な対象にしておいて良いわけがない。怖い、不安なだけというのはリアルじゃない。
じん
壁の向こうにある世界として見てしまっているわけですね。
安井さん
当事者の人たちは、同じ世界にいるんですよ。辛いですけどね。いっぱい傷ついているし、不安だし、だけど認知症の世界はたんたんと流れているわけですよ。それをどういうふうに周りが受けとめてあげられるか。受けとめるには変な話、見慣れるとか、「そういうものだ」「それはあって当然だ」と捉える。人は長く生きられるようになってしまっていて、長く生きれば生きるほどどこかに疾患が起きるわけで、どんどん増えるわけですから。「そういうものである」というふうに捉えなければ。
僕がもってのほかだと思うのは、「本人はボケただけだからいいよね、周りは大変だよね」という言う人がいる。本人がどれだけ辛いと思ってるんだ。だから、一緒にいる人たちも辛いけど、一緒に笑って過ごせるような場面をつくらなければいけないと思って、僕らはやってるわけですよ。
それをうちの職員だけでなく、家族とか地域とか丸ごとでね。「ああ、そういうものなんだね」「辛いね」「大変だね」って共感しながら、でも、「このトマト甘いね」って「こういうの子供のとき取った?」って笑いながら話せるような関係をつくりたいわけですよ。地域と一緒にね。
これだけ数が増えてしまったら、施設に収容して職員が対応して解決するっていうのは、物理的に無理なわけですよ。箱物も足りない、そこで働く人も足りない。海外労働者を入れて、それでいいのか。介護職じゃなくても、一緒になって辛いことの共有をしながら、笑って過ごすような場面をつくれるプレイヤーにはなってもらえると思うんですよ。
僕たちだって認知症になっちゃうんだから。俺が認知症になったらすごくキツイと思うんだけど、脳みそで考えることだけで生きてると思ってるから(笑)